葉見ず花見ず 八日目

八日目、九時二十分。
番神は医院の玄関でを待つ。
瓢湖から借りた深緑の着物は体格のよい番神でも着ることができ、彼が暗器使いでよかったと初めて思った。
約束の時間まであと十分。たったの十分なのにやけに長く感じる。
日の高いうちに着物を着るのは数年ぶりで、似合っていなかったらどうしようと不安に駆られてきた。

(早く来てくれ!)

が来れば余計なことを考えずに済む。
飼い主を待つ犬のように焦がれていると背後の扉がガチャリと音を立てて開いた。
振り返ると淡い桃色の着物を身にまとい、薄く化粧を施したがこちらを見つめていて、番神は我を忘れて見入ってしまう。
いつもは可愛らしいのに、今日は酔いしれてしまうほどの美しさだった。

「おはよう、少し待たせちゃったかな」
「あ、ぅ……さっき来たとこだ」
「よかった!……着物、すごく似合ってるね」
「……も、綺麗だ」
「あ、ありがと……」

隣へ来たは伏し目がちでもじもじしていて、番神は胸が焼けるほどの恋しさを感じた。
と逢うのは今日が最後。
少しでも彼女の中に残れたら、それでいい。

「じゃぁ行くか!」
「うん!」

番神は破顔し、の歩幅に合わせて横浜の市街地へ向かった。
その二人の背中を医院の窓から見ていた丑寅とみなみ

「海で乳繰り合っときながらじれってぇなぁ」
「まぁまぁ今日が最後だし、いい思い出になることを祈りましょ」

番神と知り合ってからは明るく、そして少しずつ大人びて綺麗になっていった。
今日帰ってきたら彼女は泣くかもしれないからできるだけ寄り添おうと未は悲しげに微笑を浮かべた。



横浜の街は港が近いせいか異人が多く、聞いたことのない言葉が飛び交い、東京とは違う活気で溢れ返っていた。
思わず腰が引けて尻込みするに気づき、番神は彼女の手を自分の手で優しく包む。
の手はピクッと一瞬強張ったが、おずおずと握り返してくれて、番神の心臓はバクバクと激しく鼓動を打った。
赤らんだ顔でを見れば、番神と手を繋いだことで安心したのか通りに並ぶ店が気になるようでキョロキョロと忙しそうに瞳を動かしている。
番神自ら観光に誘ったのにがこちらを向いてくれなくて、自分だけを見てくれたらいいのに、と幼稚な独占欲が芽生えた。
そんな番神の気持ちなど微塵も知らないは、無理矢理意識をあちこちに建つ店舗へ向けていた。
今日が最後だから番神のことを見ていたいのに着物を身にまとった彼が格好良すぎて直視できない。
額の鉢巻は外していて、普段は晒している胸や腹が見えていないのに妙な色気を感じてしまう。
今見ておかないと後悔することは確実だったが、早鐘を打つ心臓が嫌だと抵抗する。
だからはせめて彼の手だけでもしっかりと覚えていたくて、大きな手の甲を指の腹で撫でた。

の行きたいところ行こうぜ」
「番神は?」
「俺はもう少しいるからいいんだよ」

せめて会話中くらいはしっかり顔を見ようと努め、が番神を見つめると、彼は口角を上げて笑っているのにどこか寂しそうだった。
東京と横浜は別に遠くない。陸蒸気に乗れば一時間足らずで着く。
それでも二人には会う理由が見つからなかった。
は東京でも借宿の身であるし、番神はぷらぷら日本中を周っているのなら文のやり取りすらできない。
“もう少し”と番神は言ったから、彼も近々横浜を離れるのだろう。
あとからがふらっと横浜に来ても番神はいないのだ。
番神の寂しい気持ちが伝染したようにの顔が曇る。
ぎょっとした番神は、あたふたして適当に近くの店を指さした。

「ちょっとあそこ!覗いてみるぞ!」

いつもならの同意を得てから動くのに、今回ばかりは返事を待たずに番神は店の扉を開けた。
店の中はいくつもの木箱が並べられていて、涼しげな音を奏でている。
箱といっても物は入れられず、本来空洞部分には金色のピン打ちされた筒が納められていた。

「「“おるごぉる”……」」

声が見事に重なって、番神とは顔を見合わせて笑った。
近くで鳴っていた一つがゼンマイ切れで音を止める。
番神はゼンマイを回そうと手を伸ばしたが、何だかへし折ってしまいそうだったのでに回させた。
カチカチ、カチカチ、とゼンマイを巻くと再び音楽を奏で始める。
聞いたことのない異国の曲を聞き、は微笑んだ。

「綺麗だね」
「あぁ」

は音が、番神はが綺麗だと思った。
オルゴールはさすがに買えないので店を出て、次はどこに入ろうか物色する。
オルゴール店で気持ちが切り替えられたのか、はいつもの調子で番神に話しかけ、よく笑うようになった。
番神も変わったのは見てくれだけで、いつものように汚い言葉遣いで返し、時々ずれた発言をしては失笑を買った。

次に寄ったのは横浜土産を主に扱っている店で、は忘れないうちに東京の知人へのお土産を買いたいと告げた。
番神はが菓子や漬物を見ている間、適当に小物を見て回る。
櫛やら鏡やら、やけに女性向けの物が多かった。
それらに埋もれるように置かれている絵葉書を見つけ、手に取った番神は一枚一枚目を通す。
横浜港や外国人居留地、そしてと“あいすくりん”を食べた馬車道通り。
番神は手を止めて馬車道通りの葉書を凝視する。
思い出すのは“あいすくりん”の味ではなく、隣でとろけそうな笑顔を浮かべていたの姿だった。
次の一枚は横浜の海で、番神はビクッと体を揺らす。

(マジで胸揉んだのか……?)

の反応から本当に触ってしまったとは思うが、余りにも実感がなかった。
いやよくよく思い返せばわずかな膨らみがあったような気がする。

(そういやぁ男に揉まれるとでかくなるって聞いたな)

東京に戻ったが恋人を作り、そいつに毎日乳を揉まれているところを想像し、番神の瞳に嫉妬の炎が灯る。

(俺が揉んで育ててぇよ!!)

なら胸がでかかろうが小さかろうが構わないのだが、とにかく自分以外の男から触れられて欲しくない。
かといって自分はにとってただの友人で、想いを告げて気持ち悪がられるなら片恋のままで終わりたかった。
ウダウダするのは嫌いな番神が一歩踏み出せないのは自分が後ろ暗いことをしてきた──いや今もしているからだ。
は潔白だとか純粋だとか純潔だとか、そんな言葉が似合う。
彼女との距離を詰めれば汚してしまいそうで境界を越えられずにいる。

(……もう汚しちまってたな)

夢の中と目が覚めてからのことを思い出し、番神は自己嫌悪に陥った。
なんなら今後、と離れてからもしてしまいそうな自分が怖い。
二、三日に一度は遊郭にでも──そう考えていたらぽんと肩を叩かれ、番神の口からは心臓が飛び出しそうになった。

「番神も欲しいのある?」
「あー、えっと今見てるとこ」

にこりと笑うは化粧のせいか大人っぽく見えて上手く舌が回らなくなる。

「あ、絵葉書?私も見たい!」
(?!すげぇいい匂いする!!)

も外見は変わったが中身や言動はそのままで、番神の持つ絵葉書が気になるのか不躾に体を寄せて来た。
今日は匂い袋を持っているようで番神の鼻先を人工的な香りがくすぐる。
香の名前は知らないが番神は犬のように鼻をひくつかせた。
はそれに気づかず、絵葉書を一枚一枚確認していた。
そして番神同様、横浜の海が描かれた葉書をまじまじと見つめる。

「そういえば海でさ」
「すみませんでした」
「え?!」

海の話題を出すと番神から即座に丁寧な謝罪が贈られ、は目を丸くする。
そしてすぐに合点がいくと眉を下げ、頬を赤らめて笑った。

「私も、その、番神の、ねっ……さ、触ったし……」
「そうだけどよぉ……」
「あの時、番神は助けてくれたんでしょ?それなのにちゃんと言えてなかったから……助けてくれてありがとう」
「転ばなくてよかったな」
「うん」

会話もそこそこに、は自分が買う分の絵葉書を番神に選んでもらう。
番神が選んだのは馬車道の描かれている葉書だった。
は海の絵葉書を選び、知人へのお土産とともに購入した。

昼は揚げ馬鈴薯つきビフテキを食べたが、はあの小汚い定食屋の方が好みだったようだ。

「“びふてき”のがうめぇだろ」

番神がそう零すとは恥ずかしそうに俯き、深緑の袖をそっと握った。

「さっきのお店、番神との距離が遠かったんだもん」

瓢湖が“梅花袖箭”で六発一度にぶち込んできたような衝撃。
番神はもう気が狂いそうだった。



朝方のぎこちなさもなくなればいつもの調子で過ごし、あっという間に日が暮れ始める。
体力の落ちているをあまり遅くまで連れ回すことは憚られ、番神は彼女を医院へ送るため人もまばらな石畳を歩いていた。
このまま医院へ戻れば、もう逢えなくなる。
はその時間を少しでも遅らせようと足を止めた。

?」

立ち止まったに気がつき、番神が体を反転させる。
は最愛の人を瞳に収め、とびきりの笑顔を作った。

「番神、今日すごく楽しかったよ!ありがとう。今日だけじゃないけどね。手拭いを贈ってくれたり、ご飯をご馳走してくれたり、本当に嬉しかった。“あいすくりん”美味しかったね。いつかもっと安くなるかなぁ?」
「おい」
「海で教えてくれた怪我から立ち直る考え方は参考にするね。かけっこしたの、実は楽しくて笑っちゃってたの。後は急に誘ったのに一緒に山に行ってくれて」
「やめろ」
「夏水仙を見たら、きっと番神のこと思い出しちゃうね。番神、私と出会ってくれてありがとう。横浜に来てよかっ」
!!」

怒鳴るように名前を呼ばれ、笑顔を消したは改めて番神へ目をやる。
彼は眉をひそめ、痛々しいものを見るような悲哀の表情をへ向けていた。
番神の右手が伸びてきて、左頬が包まれる。
そして親指で目の下を拭われ、そこでは自分が涙を流していることを知った。

昨晩、笑顔の練習をして、番神に伝えたいことを何度も復唱して、泣かないと決めていたのに出来なかった。
顔がぐしゃぐしゃに歪んで堰を切ったように大粒の涙がぼろぼろと溢れて、番神の指を濡らしてしまうのに止められない。
残された時間はあと少ししかなくて、番神のことを見ていたいのに視界がぼやけて薄暗い闇の中、黒に近くなった緑しかわからなかった。

声を押し殺し、しゃくりあげて泣くを目の前にし、番神も泣きたかった。
はらはらと落涙する姿はまるで、涙を流すことが許されない番神の心を映す鏡のようだった。
今日が最後だからお別れは笑顔で、だなんて番神の強がりで、それがを苦しめていたと思うと居ても立っても居られず、悲しみで震える小さな体を抱き寄せた。

「ばん、じ……番、神っ……」

腕の中で息を詰まらせながら名前を呼んでくるがどうにも恋しくて、愛しくて、番神はどこにも行かせないように強く抱きしめる。
片恋で終わらせるなんてはじめから無理な話だった。

「俺は恋愛小説なんて興味ねぇし、浪漫もわかんねぇ。気の利いた言葉も全然言えねぇけど、今日が最後は嫌なんだよ。が好きだ。俺とずっと一緒にいてくれよ」

番神の腕の中で、欲しくて欲しくて焦がれていた言葉を贈ってもらえて、は大きな背中に腕を回してわぁわぁ泣きながらしがみついた。

「っ……わた、私っも……ばんじ、とっ……い、いっしょが、いいっ……」
「……そうか」
「ぅ、んっ……ばんじ、ん……好き……」

ぐり、と胸板に顔を擦りつけられ、可愛らしいことを言われると我慢ができなくなる。
番神は腕を離しての顎を掬い、体を屈めて唇を重ねた。



指を絡めるように繋ぎ、医院までの道を歩く。
人がほとんどいなくても公道であんな一世一代の告白をし合い、二人ともむずむずとした羞恥心に追われて逃げて来た。
憧れていた恋愛小説のような恋ではないけれど、は日本で、世界中で自分が一番幸せなのではないかと思い、隣の番神を見上げた。
視線に気づいた番神もを見下ろす。

「どうした?」
「んー……幸せだなって」
「そうかよ」
「番神は?」
「いちいち聞くんじゃねぇ」

口調は荒いのに眼差しはとても優しくて、今日の番神は歳相応に見えた。
特に恋人でなくても交わせる会話をしながら、二人は医院に到着する。
番神は別れを惜しむようにの体を抱きしめた。

「一週間後、新橋駅に迎えに行く」
「うん……」
「ずっと、大事にするから」
「私も、番神をずっと大事にするね」

体を離して顔を合わせれば番神の目元は赤らんでいて、いつもの照れ方とは違うそれにの胸はきゅぅと苦しくなる。
ももっと色々なことを番神に伝えたいのに、まだ恥ずかしくてとても言えそうになかった。
そこでは番神に少し待ってくれるように頼み、そっと玄関の扉を開けて院内に入る。
一人になった番神がぼんやりと医院を眺めていると、玄関からすぐ右の部屋にぼんやりとした光が灯った。
そこがの借りている部屋なのだろう。
ゆらゆらと動く影を見ての動きを想像し、番神は彼女の戻りを待つ。
数分経ち、再び音を立てないように扉を開いたが番神に駆け寄る。

「お待たせ!あの……これ……」
「絵葉書?」

それは今日購入した絵葉書で、が選んだ横浜の海のものだった。
絵の隣に何か書き込まれているが、薄暗くてよく見えない。

「今読まないでね。別荘に戻ってから読んで」
「えーっとなになに……?」
「読まないでよぉ!」

読むふりをすれば必死になって止めてくるが可愛くて、番神はくっくっと笑った。
機嫌を損ねられても困るので絵葉書を懐へ入れ、が院内に入るまで待つが、彼女はなかなか行こうとしない。
番神が首を傾げるとは小声で「もう一度したい」と言う。

「もう一度?」

もう一度って何が?と番神が首を傾げると、は少し怒ったような顔でそっと自分の唇を押さえた。
そこでご所望のものがわかり、番神は視線を泳がせて頭を掻く。

「お前、けっこう欲張りなのな」
「欲張り、嫌い?」
「……好きに決まってんだろ」

辺りを見回して誰もいないことを確認した番神は、の腰に右腕を回して抱き寄せ、見上げてくるの唇を食む。
数秒重ねてから一度離し、角度を変えてより深く合わさるように口づけた。
は体をぴくっと震せ、鼻にかかった声を漏らす。
これ以上していると歯止めが効かなくなる自信があり、番神は名残惜しかったが唇を離した。

「続きは一週間後な」
「……助兵衛」

少し脱力してしまったを支え、医院の玄関に押し込み、番神は別荘へ向かった。
人誅が終わって落ち着くころにはと一緒になれる。
帰路は自然と足が弾んでしまう番神だった。