葉見ず花見ず 二日目

二日目、番神は昨日と同じ時刻に医院に着く。
今日のは鍛錬をしておらず、木陰に座り込んで一冊の本に没頭していた。
番神が近づいても顔を上げない。思い切って正面に立つが、それでも気づかない。

「おい」
「わぁ!!」

そこまで大きな声を出していないのには大げさなくらいに驚愕の声を上げる。
そして本から番神へと顔を向けた彼女の瞼はぼってりと腫れていて、次は番神が驚くこととなった。

「お、おい……目ェどうしたんだよ?」
「あ……そんなに酷い?」

の隣に腰を下ろし、番神はまじまじと彼女の瞳というよりその周辺を観察した。
ものもらいかはたまた他の患いかと心配そうな彼の様子に苦笑を漏らし、は手にしていた一冊の本を差し出す。

「ん?なんだよ」
「この本ね、恋愛小説の短編集なんだけどすっごく切なくて!昨日読んで泣いちゃったの」
「へぇ」
「なにその興味なさそうな返事は!」
「興味ねぇもん」
「むむむ……!」

は瞼の次に頬を膨らませ、パラパラと頁をめくって番神に見せた。

「これ!このお話がお互い好きになったのに実は敵同士だったってやつで……思い出しても泣ける……」
「そうかよ」
「番神にはこの浪漫がわからないんだね。あーぁ、私もこんな情熱的な恋がしたいなぁ」
「しようと思ってできるもんじゃねぇだろ」
「そうだけど~……ね、番神は恋人いたことある?あ、もしかして実は今いたりする?」
「今いたらとは会ってねぇよ……」
「そっか!よかった」
「……よかったってどういう意味だ?」

どこかホッとしたようなに番神の胸はざわついた。
自分のことが異性として気になっているから恋人がいなくてよかったのか、自分の恋人に不貞を疑われずによかったのか、それともには恋人がいないから自分にもいなくて安心したよかったなのか──

(どれだ?!)

どぎまぎしながら彼女をうかがうとは頬を紅潮させて黙り込んでいた。
なんという間の悪さか、みなみに言われた“いい人”や“体つきも歳の頃もよさそう”を思い出してしまったのだ。
そのことは露知らず、番神は見てはいけないものを見てしまった気持ちになり、錆びついたようにぎこちなく首を動かしてから視線を逸らす。
恋愛小説の話をしていただけにちょっとばかし気まずい沈黙が流れる。
何か話題を変えようと思いあぐねる番神。
そんな彼の耳はの声を捉えた。

「えっと、何に対してのよかったなんだろう……自分でもわかんないや」
「そ、そうか!」

声に反応してへ顔を向けてしまった番神は、どこか恥ずかしそうな彼女の笑顔を見て、さすさすと厚い胸を擦る。
びっくりした。瓢湖が“梅花袖箭”を撃ってきたかと思った。
もちろん胸に物理的な矢など刺さっていない。
しかし、このままだと心臓がもたない気がして、番神は無理矢理意識を逸らそうとの持っている本を拝借する。

「もしかして興味持ってくれた?」
「うわ、字しかねぇな」
「そりゃ小説だもん。私が泣いたやつ、読んでみて」
「うーん……字見てるとすぐ寝ちまう」
「えー!大げさだなぁ」
「チッ……証明してやるよ」

番神は樹の幹にもたれかかり、がぼろ泣きしたという物語の一頁目を眺めた。
内容が全く頭に入ってこない。
も樹の幹に背中をつけ、隣で本を読んでいる番神の横顔を見つめる。
鼻の形が綺麗だなぁとか瞳の色が茶色いなぁとか喉仏が出ているなぁとか思いながら観察していると彼の瞼が徐々に下がっていくことに気づく。

(え……?)

まだ読み始めて一分も経っていない。いくらなんでも早すぎる。
番神は眠気に抗うように速い間隔で瞬きを繰り返していて、も思わず頑張れ!頑張れ!と心中で応援をする。
しかしそれも虚しく、番神はすっと瞼を完全に下ろすと微動だにしなくなった。
が番神の顔の前で手のひらを上下に振るが無反応。顔を近づけて耳をそばだてるとすぅすぅと規則正しい穏やかな寝息が聞こえた。
番神の手元の本を確認すると一頁も進んでいなくて、は口から飛び出そうになる笑い声を両手で押さえ、体を小刻みに震わせる。
本を読む前に番神が舌打ちをして「証明してやる」と宣言していたことが相乗効果を生み、笑いは止まらなくてお腹が痛くなってきた。
ヒィヒィと呼吸をし、笑いが治まったところでは彼のがっしりとした肩に手を置く。

「もしもーし、起きてー。お昼寝には早いよー」

ゆさゆさと軽く揺らしてみるが、番神は目を覚まそうとしない。
それどころかが揺さぶったことで均衡を崩し、彼女の方へ倒れ込んできた。

「わっ……」

少し退いたが逃げきれなかったは、番神に押される形で地面に横たわる。
中途半端に距離を取ったことが結果あまりよくなく、彼の顔はの胸の位置に納まることとなった。
それに気づいたの頬はみるみるうちに熱を持つ。
だが、眠っている人相手にここまで意識するのもおかしく思えて、平常心を保とうとは抜け出すための方法を考える。

(うーん、重たいから抜けられない……)

見るからに筋肉質な番神の全体重がかかり、また力を入れにくい体勢であるから抜け出すことは困難を極めた。
それならばとぺちぺち彼の肩や背中を叩いてみる。
しかし、番神は唸るだけでいっこうに目を覚まさず、ぐりぐりとの胸に顔を擦りつけた。

「!!」

本当は起きているのでは、と首を曲げて確認するも残念なことに番神は眠ったままだった。
勝ち気で吊り上がった三白眼が閉じられた寝顔は、なんだかいつもより幼く見える。
昔、実家の近くに住んでいた大型の野良犬もこんな風に胸に飛び込んできたっけ、と思い出していると段々と落ち着いてきて、は番神の頭をそっと撫でた。
他の男の人だったら嫌なのに番神なら許せてしまうのは、彼が犬っぽいからだろうか。
編み込まれた髪の毛の独特な感触を手のひらで楽しみながら、も瞼を下ろす。
夏の午前、木陰にいることもあってそれほど暑さを感じない。
ミンミンと鳴く蝉の声が少しずつ、少しずつ遠ざかって行った。



「なんで起こさねぇんだよ!!」
「だって起きなかったんだもん」

十二時、鳴り響いた時計の音で目を覚ました番神は、を押し倒し、さらに胸に顔を埋めていたことを理解すると青ざめるやら紅潮するやらで忙しかった。
瞼の腫れもだいぶ引いてきたは欠伸をひとつ零し、隣であわあわしている番神に笑いかける。

「別に嫌じゃなかったし、気にしすぎ」
「?!?!」

慌てふためく様子が面白くてはくすくす笑っているが、番神は余計に気が動転した。
そこまで女性経験が多いわけではないため、どのように対応すればよいかわからない。
別に嫌じゃなかったとは、どんな意味が含まれているのだろう。
回転が元々速くない頭を懸命にぐるぐると回転させている番神の隣で、はすくっと立ち上がった。

「ね、ね、昨日のお店に行こうよ!他のご飯も食べてみたいな」

小説片手にお腹を擦って空腹を訴える
そんな彼女の姿に番神は拍子抜けしてしまう。
どうやら本当に気にしていないようだ。
安心したような悲しいような複雑な心境の番神だった。



今日もお代は番神が持ち、は昨日と同じく頬を膨らませる。
下敷きにしてしまった詫びだと伝えれば「気にしてないのに……」と小声のぼやきが聞こえた。
はけっこう頑固な性格のようで、番神の背後で呪詛の如くぼやき続ける。
何とか話題をすり替えられないか番神は考え、あることを思い出して足を止めた。
右手を背中に回し、背面の腰差胴乱を開け、そこから赤い和紙で包装された箱を取り出す。
それに気を取られ、はぼやくことを辞めていた。
作戦が成功した番神は口角を上げ、振り返ってに箱を差し出した。

「やるよ」
「も、もらえない……」
「俺に使えってか?」
「えぇ……中身なんなの?」

半ば無理矢理に押し付けられ、とっさに受け取ってしまったは箱を軽く振ってみる。
何の音もしない。
訝しげにが番神へ視線を送ると開けろとばかりに彼は顎をしゃくった。
は和紙を丁寧に剥いで脇に挟み、出て来た真っ白の箱を開ける。

「わぁ……可愛い!!」

箱の中には白地に注染で桃色のウサギが数羽跳ねている模様の手拭いが納められていた。
は今にも動き出しそうな躍動感のあるウサギ達を見て、顔をほころばせる。

「昨日、の手拭い汚しちまったからな」
「そんな気にしなくていいのに……」
「気にするに決まってんだろ」
「そっかぁ……番神、ありがとう!大切に使うね!」

笑顔で番神に礼を告げ、再度手拭いへ目を向ける
そこでふとこの手拭いを選んでいる彼の姿を想像してしまい、小刻みに肩を震わせた。
いきなり笑い出したに番神はギョッとするも瞬時にまた変なことを考えていると悟り、眉をしかめた。

「おめェ、また変なこと考えただろ」
「うん。番神がこれ選んでるところ想像しちゃった」
「!!」

その言葉に番神は昨日手拭いを購入した時のことを思い出し、首から上を赤くする。
手拭いを汚してしまったため新しいものを贈ろうと明らかに女性向けの小間物屋を覗いた際、店員から贈り物か、相手はどんな人か、恋人なのかと根掘り葉掘り聞かれ、押し切られる形で購入したのだった。
今となっては可愛いと喜んでくれたからよかったものの、他の女性客がいる中でああだこうだと聞かれたことは恥辱でしかなかった。
それを思い出させたをギロッと睨むが赤面していてはちっとも迫力がない。
睨まれているとは微塵も思っていないは、番神と目を合わせてへにゃ、と笑う。

「すごく嬉しいな、ありがとう」

目尻の下がったその表情は言葉以上に彼女の心情を表していて、直視できなくなった番神は目を逸らして小さく頷いた。



その晩、は借りている医院の一室で手拭いをじっと見つめ、跳ねているウサギを指先で撫でて口を緩ませる。
この手拭いが可愛かったのもあるが番神が贈ってくれたということが格別に嬉しく、は布団にうつ伏せになってバタバタと足を動かした。
本を開いて一瞬で眠ったり、すぐ赤くなったり、何かと理由をつけてご馳走してくれたり、番神のことを知れば知るほどもっと知りたい欲が出てくる。

(寝顔、可愛かったなぁ)

起きている時はあんなに眼つきが悪いのに、と一緒に寝てしまったことを思い返す。
そういえば髪を撫でるなんて意外と大胆な行動をしたように思えてきて、手拭いを抱きしめて布団の上を左右に転がった。
圧しかかってきた番神の体は重く、剥き出しの肩はがっしりとして自分とは全く違う男性的な体つきだった。
本を読んで(眺めて?)いる時の横顔は精悍で──そこでは起き上がり、思考を断ち切る。
胸がドキドキしてきてこのままでは眠れなくなりそうだ。

(うぅぅ、未さんのバカ……)

番神は友達なのに、未があんなことを言ってくるから変に意識してしまう。
そもそも知り合ってまだ二日目。時間で見ると一日にも満たない。
それに番神のような雄々しい人には、とびっきり美人で妖艶な女性が似合う。
手拭いを卓に置き、は両手を胸に当てた。

(小さい……絶対に番神よりも小さい……)

彼のパンパンに厚い胸板を思い出し、ガクッと肩を落とした。
完璧に負けた気がする。
はため息をつくと灯明とうみょうを吹き消して布団に入った。
明日もまた番神に会えるだろうか。

(……会いたいな)

そろそろまた手合わせをしないと彼は来てくれなくなるかもしれない。
は腿の傷に触れ、明日を迎えるために目を瞑った。